本の紹介

『わたしは、あなたとわたしの区別がつかない』藤田壮眞著(KADOKAWA)を読んで

中学3年生の時に「自閉症を持つ私から見た日常」という作文で、文部科学大臣賞を受賞した著者が、高校1年生で書き下ろしたエッセイ集です。新聞に発表されたその作文を読んだ時に、ニキ・リンコ氏、藤家寛子氏、東田直樹氏に続く自閉症世界の紹介者を予感したのですが、それは間違いではありませんでした。

「幼稚園はきらい」「小学生に変身」「呼んでも聞こえない」「表情が読めない」等、当事者が感じ見ている様々な世界を自閉症という障害がある著者の視点から教えてくれます。中でも秀逸なのが、表題にもある「あなたとわたしの区別がつかない」です。

その中で、「わたしが体験したことは、わたしだけのものである。あなたが体験したことは、あなただけのものである。説明されれば理解はする。何度も口に出して言ってみる。だがしかし、ほんとうのところではわからない。わたしが知っていることは、みんなも知っていると思ってしまう。」同じようなことを藤家寛子氏も言っていたと記憶していますが、このあたりの感覚を理解するのはかなり難しいと思います。私も感覚的に理解できません。

「わたしが知っていることは、みんなも知っていると思ってしまう」のだとしたら、コミュニケーションが上手くいくわけがないと思います。例えば、日曜日に家族と体験したことを学校で話すことの意味がなくなってしまいますよね。だって、他のみんなも知っているんですから。そもそも、その場にクラスメイトは誰もいないのに、どうしてそのことをみんなも知っていると思えるのでしょうか?この辺が不思議な感覚なんだと思います。

この不思議な感覚を持っていたら、あの有名な「サリーとアンの課題」は出来ないはずです。なぜなら、アンが知っていることはサリーも知っていると感じてしまうのですから。ということは、この「サリーとアンの課題」は再考を迫られるかもしれません。この「サリーとアンの課題」は誤信念(「その人は知らない」ということを私は知っている)課題として試されるわけですが、自閉症者の多くが著者と同じように共信念(「私が知っていることは、あなたも知っている」)を持っているとしたら、誤信念を理解できているかをみる課題を、共信念という不思議な感覚で答えてしまっているのですから。

定型発達者が自閉症という不思議な障害を査定することの限界さえ感じてしまいました。しかし、様々な人が心地よく生きていくために、大多数の定型発達者が取り組んで行くべき課題が垣間見えました。自閉症者の多くは、我々が別に何でもないことを眩しく感じたり、うるさく感じたりしています(視覚過敏、聴覚過敏)。必要な情報だけをピックアップして聞くことが出来ません(選択的注意不全)。でも、そうした不都合を環境的な配慮やテクノロジーでカバーすることは出来ると思います。それにはまず、こうした不都合や不思議な感覚がある彼らのことを、多くの人が知る必要があると思います。この本は、彼らのことを知る貴重な一冊だと思います。

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